平安京エイリアン
ゲーム開発の経緯
きっかけ
1979年、週刊朝日の「デキゴトロジー」という人気コラム(穴吹記者が創設)で、大学サークルが開発したビデオゲームを紹介するシリーズがありました。東京工業大学(現:東京科学大学)・電気通信大学MMAのゲームが紹介され、次に東京大学が取材されました。
穴吹記者はまず東大マイコンクラブ(TSGとは別の団体)に行きましたが、同サークルが見せたゲームは記者は今ひとつと思ったそうです。そこで理論科学グループ(TSG)に取材を申し入れましたが、TSGは当時ゲームについて何も取り組んでいませんでした。
急遽、駒場学生会館の1階ロビーの入り口左側すぐのソファー席でアイディア出しを行い、平安京エイリアンのアイディアが出ました。1週間後の取材時には紙でアイディアの説明をおこない、これが週刊朝日に掲載されました。(ちなみに東大マイコンクラブのゲームも掲載されました)
しかし週刊朝日に掲載された時点では紙の上のアイディアだけで、プログラムにはなっていませんでした。その後サークルのメンバーがApple II(言語はBASIC)でプログラムを作り上げました。
記事を見たナムコ・セガ・電気音響の3社からオファーが入り、AppleII版の平安京エイリアンを見て頂きました。具体的な商品化案を持ってきた電気音響で商品化されることになりました。

アイディア
当初のアイデアは、「マンションのリビングにゴキブリが這い回っているところに、ごきぶりホイホイを仕掛けて退治する」というものでした。ただし、それだとプレイヤーの自由度が大きすぎるので、フィールドを碁盤の目としました。
また、当時は映画『エイリアン』が封切り直後だったためにメンバーから「どうしてもエイリアンを出したい」という強い意見があったので、ゴキブリをエイリアンに、ごきぶりホイホイを落とし穴に変更されました。
フィールドも碁盤の目のような町ということで、いくつか名前が挙がった(長安・札幌・サンフランシスコなど)中から平安京となり、ゲームの大枠が固まりました。
この「平安京エイリアン」という絶妙な名称が、本作にインパクトを持たせたと言えます。
当時は「口裂け女」が流行っており、エイリアン回避策として「口裂け女」のべっこう飴に関する俗説を基にした「べっこう飴ボタン」が設けられました。べっこう飴ボタンはエイリアンに飴をあげるボタンで、エイリアンと接触したときにタイミングよくボタンを押すとエイリアンが飴を舐めてしばらく動かなくなるのでその間に逃げられるという効果がありました。べっこう飴は3個まで使え、残機の代わりとなっていました。
ところが当時のアーケードゲームの機材は1レバー3ボタンという構成に対応していなかったため、アーケード版では「べっこう飴ボタン」は削除され、他のゲーム同様に「3回死んだらゲームオーバー」という条件に変更されました。

アーケード版ゲームの開発
アーケード版を商品化した電気音響株式会社は、音響部品やアーケードゲームを製造していた企業で、東京大田区に本社がありました。
アーケード版のハードウェアは、電気音響がそれまでに製造していたアーケードゲーム機(セガ『ヘッドオン』(1979)のコピー品)にサウンド等の改造を施したものを使いました。
ソフトウェアは、TSGメンバーが電気音響の作業場で開発しました。夏休みに1カ月で完成させる計画でした。電気音響のもくろみは、既に動いている AppleII版を単純に移植すれば良いというものでしたが、実際にはすべて最初からプログラムを作り直すことになりました。
その年の秋のアミューズメントマシンショー(1979年10月19日)で発表され、翌年初めに発売されました。
なお、電気音響の次回作『ダンシングクイーン』にTSGは関係していません。
ハードウェアがコピー品で、世の中に大量に出回っていたものであったため、ROM(プログラムを書き込んだメモリー)を容易にコピーすれば簡単に模造品ができてしまいました。そのため、実際に世の中に出回ったアーケード版の大半は、「コピー品のコピー品」とでも言うべき他社製となってしまいました。そのため、電気音響製の純正品は全体からすると比率が少ないです。
本作の権利はアーケード版の移植の際に電気音響が買い取ったため、村田製作所に吸収合併された後はしばらく権利が宙づり状態になっていましたが、その後、TSGの開発メンバーである武重有正が経営する株式会社ハイパーウェアに権利が移管されました。
